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今回は日本の子どもたちが、「YouTuberになりたい!」と言い出し、新しい職業を作った日本トップの元祖YouTuberのヒカキンさんを取り上げていきます。
みなさん、ヒカキンさんがもともとスーパーの店員から、日本のトップを走る元祖YouTuberまで成り上がった彼の人生の中身知りたくないですか?
こちらがヒカキンさんの人生グラフです。私たちにいつも元気を与え、 楽しませてくれるヒカキンさんにも実は暗い過去があったんです。

この動画・記事を最後まで見ていただければ、ヒカキンさんが月2万円で生活していた時期、あの世界のトップミュージシャン、エアロスミスとの共演秘話など、あなたの知らないヒカキンさんの一面を知ることができます。
それでは、早速見ていきましょう!
名前:HIKAKIN
出身:新潟県
生年月日:1989年4月21日
- 元祖YouTuberの出発点
- 2万円だけで夢を追いかけ上京
- 点と点がつながる瞬間
- マジになったHIKAKIN
【元祖YouTuberの出発点】
1989年4月21日、新潟県妙高市(みょうこうし)にて、現在知らない人はいないと言っても過言ではないヒカキンさんが生まれます。
小さい頃のヒカキンさんは、今のお茶目な一面をみんなの前で披露する面影はなく、教室の隅のほうにいる変わった少年だったそうです。
小さい頃は雪国である新潟に生まれたこともあって「YouTuber」ではなく、スキージャンプを小学生から高校生まで頑張っていました。
今ここです!
雪国で生まれ育ったヒカキンさんは小学生の頃は、スキージャンプでオリンピックを目指していたそうです。当時、世界のスキージャンプ界を引っ張っている大物選手とも一緒に練習をしていたんだとか、、

ヒカキンさんの小さい頃の夢は「スキージャンプでオリンピックに出場すること」だったようです。その実力は全国で8位に入るほどで、オリンピックを目指すのもわかりますね。
ちなみに、世界のスキージャンプ界を引っ張る大物選手とは、高梨沙羅(たかなしさら)選手です。ヒカキンさんは高梨選手の練習相手を務めたこともあります。

スキージャンプでオリンピックを目指すそんなヒカキンさんには、早くもユーチューバーになる転機が訪れます。
小学生の頃、当時フジテレビ系列で放送されていたバラエティ番組「力の限りゴーゴゴー!!」のコーナー「ハモネプリーグ」に出ていたRAGFAIR(ラグフェア)の奥村正佳(おくむら まさよし)こと、おっくんのボイパを見て感動し、ヒカキンさんの代名詞である「ヒューマンビートボックス」に夢中になります。
これが元祖ユーチューバーヒカキンさんの始まりでした。
もちろん、本人はこれが将来予想もしない人生になるとは知る由もありません
今ここです!
ヒカキンさんのYouTube動画のオープニングで披露する「ブンブンハロー!YouTube」でボイパを使っているのは、こんなに早い段階からだったんですね。

高校に進学後は、スキージャンプをやりながらヒューマンビートボックスのライブ活動を行っていました。
それと同時に、海外の人のビートボックスをYouTubeで見ていたとき、
「自分でYouTubeに動画を上げれば、逆に見てもらえる」
と思い、軽い気持ちでYouTubeチャンネル「HIKAKIN」を開設します。
当時はあくまでも趣味の一環として動画を投稿しています。
YouTuberとして食って行こうなんて微塵も思っておらず、ただ自分の撮った動画をアップするだけでした。
今ここです!
ちなみに当時、YouTubeは日本に対応していなくて全て英語だったそうで、近くの本屋でYouTubeをアップする方法の本を買ってきて動画を投稿していたそうです。

【2万円だけで夢を追いかけ上京】
そして、高校卒業と同時に上京します。
今ここです!
ヒカキンさんは高校卒業後、「うまいビートボクサーが集中しているから」という理由で、東京に拠点を移すことを決意し上京します。しかしHIKAKINさんは無謀な挑戦をするのです。

この時、自分の銀行口座はなく、貯金もありませんでした。
持っていたのは親から渡された2万円のみ。
就職先はその後4年間勤めることになるスーパーマーケットで、社員寮だったため住む場所には困らなかったそうですが、初の給料までの期間を2万円で過ごすことになります。
それからヒカキンさんは、人生で最もつらく、悩み、もがき苦しむ4年間を過ごすことになります。
今ここです!
上京はユーチューバーを目指してではなく、ビートボックスがうまくなりたいという理由にはびっくりですね。さて、ここからどんな人生を送るのでしょうか?

2万円だけを持って、上京したヒカキンさんは、「お金を減らしたくない」と追い込まれた状態だったため、値引きシールのついた食パンを買って、実家から持ってきたココアの粉をかけたものを食べてなんとかつなぎとめたそうです。
しかし、その後もスーパーを退職するまで切り詰めた生活をします。
朝ごはんはコンビニの肉まん1個、昼と夜は社食で一番安い200円の定食で、冷たいご飯とぬるい味噌汁におかずの定食。
それを4年間続けました。同期は社食のご飯が美味しくないから外食しますが、お金を貯めるためにずっとこらえていたそうです。
休みの日は業務用のそばを買って、1食分ずつゆでて食べるという生活を送っていました。さらに一回で一気にお金が減る遊びも、コンパも基本は行くことはなかったそうです。
唯一の楽しみが1万円しない程度の洋服を買うことだと言っています。
その切り詰めた生活も動画を作るためのカメラとパソコンを買うためで、「いつかやめる」という強い気持ちを持っていたからこそ、続けられたのでしょう。
1年目は貯金10万円くらいしか貯めれなかったそうですが、2年目は切り詰めた生活を続けて、100万円貯金します。
このストイックな一面は動画への強烈な情熱を感じますね。

スーパーマーケットでの仕事は激務で、早朝から慣れない電車に乗って通勤し、力仕事ばかりでオープン時間の9時にはもうクタクタになっていたそうです。そして夜帰宅してから、ビートボックスの練習と動画制作を繰り返す生活を送ります。
その社員寮の環境も動画制作には向かない環境で、ワンルームの木造アパートで隣の住人のくしゃみが聞こえるくらい壁がうすくて音が筒抜けだったそうです。隣の人に迷惑をかけることができないので、声を張れずに、小さいユニットバスに入り窮屈な姿勢で動画を撮っていた時期もあったんです。
そんな切り詰めた生活を支えていたのは、やはりビートボックスと動画でした。
ビートボックスの動画を何回も撮り、100%うまくいったと思えるものを厳選してアップします。翌朝その動画に対するコメントや海外からの評価などの良い反応が毎日の支えになっていたようです。この時は月に1、2本の動画投稿頻度でした。
上京して2年ぐらい経った頃には、一番伸びている動画が約20万回再生するものも出てきていたので、
ヒカキンさんはYouTubeパートナーに一度申請しますが、、、
なんとまさかの却下。
しかしそれがヒカキンさんの心に火をつけることになります。
「YouTube側からオファーされるようになってやる!」
と考え、さらに動画制作に力を注ぎ込みます。
そして、ヒカキンさんの運命を変える出来事が訪れます。
【点と点がつながる瞬間】
2010年に「スーパーマリオブラザーズ」シリーズのBGMをビートボックスでメドレーにした動画「Super Mario Beatbox」をアップロードし、これがなんと、24時間後に20万アクセスを記録し、1週間後には100万アクセスまで伸びはじめます。

そして、小学生の頃に憧れた「ハモネプリーグ」で、初めて実施されたボイスパーカッション部門「ボイパ日本一決定戦」にファイナリストとして残ります。
念願の「ハモネプリーグ」では惜しくも優勝を逃すも、「Super Mario Beatbox」が世界でもニュースに取り上げられます。

今ここです!
ここからが今のヒカキンさんに至るまでの強烈なエピソードが出てきそうですね。でも少し落ちるところも気になります。まだまだ続きが見逃せません。では続きにいきましょう。

実は、「Super Mario Beatbox」が24時間後に20万アクセスを記録し、1週間後には100万アクセスしたことがきっかけで、ヒカキンさんはYouTube側から、ついにYouTubeパートナーのオファーをもらいます
これがヒカキンさんのYouTuberとしての大きな第一歩になります。
その後、ヒカキンさんはさらにYouTubeに情熱を燃やします。掛け持ちしていたスーパーで、上司に嫌味を言われたりしても「自分にはYouTubeがある」と思って我慢できたようです。
この頃はまだスーパーと掛け持ちで働いていましたが、その後も順調にYouTuberへの階段を登っていきます。
2010年度のYouTube世界ベストパートナートップ500に選出されます。さらに「wowスタープロジェクト2010」では優勝し、ラスベガスにも招待されるなど順風満帆でした。
そして、ヒカキンさんはYouTubeパートナーフォーラムでアメリカのユーチューバーであるミシェル・ファンの講演を聞いて感銘を受け、今までよりもさらに動画に情熱を注ぎ込むことを決めます。
その講演内容がヒカキンさんの出版した本にも書かれています。
それが、これです。
「今、私は自由で、望んだ通りの生活をしています。私のボスで、プロデューサー、マネジメントをしているのは、私自身だから。好きな時間、たとえば夜中の2時に起き出して、自宅でメイクレッスンの動画を、時間を気にせず、納得いくまで作り、YouTubeにUPする。それだけ。大好きなことを、時間にも場所にもとらわれず、心から楽しんですることで、それが立派な『仕事』になるのって、最高に幸せ!私の夢は、YouTubeでかないました」
(HIKAKIN著書『僕の仕事はYouTube』より)
YouTuberとして、確実にスターへの階段を登っているそんなヒカキンさんに、ある出来事が起こります。
【マジになるHIKAKIN】
YouTuberとして順調にいき始めていたヒカキンさんに、スーパーをやめてYouTuberとして生きていく、あるチャンスが舞い込みます。
それが「YouTube Next Up 2011」プログラムという動画コンテストです。
このコンテストで受かれば200万円の賞金が出ます。
そしてその賞金を受け取れるのは10組。
当時、ヒカキンさんは日本でチャンネル登録者数が1位でした。
なので、周りからも、「まあ、HIKAKINは大丈夫でしょ」などの声もかけられ、ヒカキンさん自身もかなり自信を持って挑んだそうです。
「これで会社を辞めて、YouTubeに専念できる!」
と夢を膨らませて、、、
でもふたを開けてみたら10組の中にヒカキンさんは入っていませんでした。
そう、まさかの落選、、、
今ここです!
YouTubeでも控えめなヒカキンさんですが、さすがに日本一のチャンネル登録者数だったから自信があったでしょう。相当落ち込んだそうですが、実はこの落選が真のヒカキンさんを作り出します、、、では、続きにいきましょう!

「YouTube Next Up 2011」に落選した時は、悶絶するほど悔しく、特定の誰かへの憎しみではなく、「ここにいる全員、抜いてやる! 僕は違う次元に行くんだ!」と思ったそうです。
その悔しさをバネにし、ヒカキンさんは奮起します。
その後ヒカキンさんはYouTubeの社員で、YouTuberへのアドバイザー的な仕事をされていた佐藤友浩(さとう ともひろ)さんに相談をしにいきます。
そして、佐藤さんから動画作りの基本をまとめたハンドブックをもらい、個別にもたくさんアドバイスをいただくことになりました。
佐藤さんから「オリジナルコンテンツを増やそう」というアドバイスを受けたことがきっかけで、商品紹介もはじめ、徐々に老若男女に人気のあるエンタメ的な動画の方向性を見出すことになります。
そして、ビートボックスだけじゃない、ブロガー的なYouTuberが誕生します。それが「HIKAKIN TV」です。
ちなみに「HIKAKIN TV」を開設したのは、2011年7月19日。

佐藤さんからのアドバイスを素直に聞き入れ、実行し続ける。そして自分でも国内外のトップクリエイターの動画を見て、タイトルやサムネイル、リンクの貼り方など、編集スキルをすべてマネて、徹底的に研究を重ねました。
寝る間を惜しんで、トップクリエイターから動画作りの基本を盗み、その3ヶ月後、、、気づいた時にはYouTubeからの収入が、会社員の給料を超えるようになったのです。
ヒカキンさんは2012年にアップされた質問コーナーでこんなことを語っています。
質問者
「ビートボックスはどうやったらうまくなりますか?」
ヒカキンさん
「自分でどれだけ情熱を持って、研究することができるかどうかです」
この信念こそがYouTuberとして、成功するまでの行動力につながったのでしょう。
そして2012年。
今ここです!
さてここからは、ヒカキンさんの怒涛の快進撃が始まります。その大スターまで駆け抜けていく爽快感はたまりません。では続きを見ていきましょう!

ついに4年働いたスーパーを退職し、YouTubeからの広告収入で生活する道を進むことになります。
こちらの動画でもヒカキンさんは言っていますが、2011年12月31日に最後の出勤の動画を撮っていて、ヒカキンさんがスーパーで働いている姿やスーパーの仕事で鍛えられたムキムキな姿を披露しています。
ヒカキンさんにもこんな時代があったんだと思える動画になっていますので、興味があればご覧ください。

そして、2013年にはヒカキンさんがファウンダーとして顧問を務める「UUUM」を鎌田和樹さんと設立します。
今ここです!
この蒲田さんとの出会いがきっかけでさらなる飛躍をします。では、ここからは怒涛の次元を超えたエピソードを連発していきます。

2013年には、あのエアロスミスと共演し、誰もが聞いたことある曲でセッションを果たします。
続けて世界の歌姫と言われている、アリアナ・グランデ、NE-YOとのコラボも果たし、日本にとどまらず、その名を世界へととどろかしていくのです。



それから同じYouTuberでもある兄と一緒にアーティスト活動などを行い、日本にYouTuberという職業を作り出したのです。
今ここです!
そしてその活躍はYouTuberという枠を超えて、実の兄のセイキンさんと様々な活動を行います

ヒカキンさんは、社会活動も積極的に行っており、
日本豪雨の時には100万円を寄付しました。
さらに今回の世界的ダメージを受けた新型コロナウイルスでは日本の皆さんに正しい情報を届けるために小池知事と対談するといった活動をしています。
「ブンブンハロー YouTube! どうも HIKAKIN です」
誰もが聞いたことのあるこのフレーズも社会現象を起こしたと言ってもいいのではないでしょうか。
そんなヒカキンさんのYouTubeチャンネルはただいま4つあります。
HIKAKIN TV
チャンネル登録者数 843万人
HIKAKIN
チャンネル登録者数240万人
HIKAKIN Games
チャンネル登録者数470万人
HIKAKIN Blog
チャンネル登録者数 57.8万人
このように圧倒的な数字を残して小学生や中学生をメインに、家族みんなでご飯を食べながらでも見ることのできるコンテンツを日々提供してくれています。
【まとめ】
ヒカキンさんの生き様はいかがでしたでしょうか?
ヒカキンさんは私たちにとても大事なことを教えてくれています。
それは「諦めないこと」と「小さな努力をコツコツ続けること」
小さい頃からYouTuberとして、何か特別な才能があったわけではありません。ビートボックスに出会い、それをひたすら情熱を持ってやり続けました。それが少しずつ周りに認められ、努力の一つ一つが重なり、今があります。
人生はだれでも1度は、必ず迷う時期もあるでしょう。
時には辛いこと、悲しいこともあります。
でもヒカキンさんの生き様から学べるように、そんな時も「やり続ける」
ヒカキンさんの生き様はその大切さを教えてくれます。
ヒカキンさんのYouTubeチャンネルで、ヒカキンさんのお母さんが出演されていました。
「親孝行も充分にしてくれています。」と、
幸せそうな笑顔でお母さんは答えておられました。
今後も有名Youtuberや芸能人、経営者を取り上げていくので、楽しみにしていてください。
以上イキザマchの糸山がお送りしました!
参考URL
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